もう一度、ル・クレジオ「ロートレアモン」より

まだ生命に似た、人おのおのが抱き自己と共に埋葬してしまう感覚と行為のあの総体に似た何か。一個の運命。一個の冒険、それも現実の冒険。一個の野生の思考。

ル・クレジオはたびたびインディアンやメキシコ原住民と生活を共にしそこへと回帰していく。たとえば体中に刺青を彫った人=言語そのものと化した人、への羨望と共に。そこでは自らが言語であるがゆえに言語は存在しない、言語以前の社会・・・もちろんそれは虚構であり、彼は再びニースへと、不愉快極まりない観光開発都市ニースへと帰ることになる。
その思考は、失われたものを取り戻すことではない。常に「来るべき」未来としてのみ存在する。ル・クレジオは(いわゆる)フランス現代思想とは無縁の作家だが、この辺りは−(無)時間概念というか(非)歴史概念というか−バルトなんかと接触*1するんじゃないか。もちろん、当てずっぽうだが。少なくとも「アメリカ西(東?)海岸のヒッピーに憧れるボーイスカウト*2と片付けるわけにはいかない。

文の数々が、永久にその創造者を裏切り、その古い昏睡した痙攣状態を破って、緩慢にその螺旋を巻き戻し、われわれの方へ、それらの文を自分の奴隷とする術を知るわれわれの方へ跳びかかってくるときである。蛇たちは相変わらずその毒液を保っているのだ。

*1:一致じゃないよ。

*2:あるシンポジウムでジャン・リカルドゥーがル・クレジオを評した言葉。ただし記憶があいまいなため不正確です。すいません。平岡篤頼の本(どれかも忘れた)で紹介されてました。