ル・クレジオ「別人ロートレアモン」

ロートレアモン文学史上−文学的にも医学的にも−稀有な症状=事件(ケース)であるが、それと同時に、常に無名に帰ろうとする「別人」がつねに生きている。この「別人ロートレアモン」を調査、分析、踏査、征服はできないとル・クレジオは言う。

未成年者ロートレアモンは絶対的に閉鎖された世界に、その世界固有の規則や法則に従って、生きている。友だちもなく、内向し、大都市の喧騒の中にただひとりでいて、倣岸で、大言壮語し、おびただしくまた猛烈な早さで読書してきた彼は、いまや自分の鏡の前で壮大な美文を朗誦するのだ、呪詛を投げ、かつ彼を蠱惑すると同時に恐怖におびえさせるこの人間社会を嘲罵の矢で射抜いて。

蠱惑と恐怖が一致する。それ自体の中で均衡を保ちながら。

ロートレアモンは彼の未成年期という牢獄からついに外に出たことがなかったし、<中学>(リセ)の世界を離れる暇がなかったのだ。

有名な話だが、『マルドロールの歌』「第一の歌」において、草稿では級友ジョルジュ・ダゼットの名がいたる所に登場したのに対し、完成原稿ではその名が大蛸をはじめとする獣類へと変えられている。ダゼットはイジドール・デュカスについて思い出といえるほどの記憶を持たなかった。
イジドール・デュカスの精神分析が問題ではない*1。読者とロートレアモン=マルドロールを隔てる壁、牢獄を確認したいだけ。

書くこと(エクリチュ−ル)によって撮影された、形成途上の世界。古生代ルポルタージュ。それと同時に、創世記というものはあらゆる要素とそれらの集合の諸可能性を握っているものであるゆえに、未来への旅、来るべきものの歴史。

ここで、時間はもはや存在していない。この認識はロートレアモンによるものか?ル・クレジオによるものか?


「(ロートレアモンが)われわれの手をのがれつづける」とル・クレジオが言うときの認識は、「わかっているが言わない」「すごいが言葉にできない」「別のなにかに似ている」と(高橋源一郎が)言うときの認識とは決定的に異なる。

*1:それはそれで興味深いが。