↑の補足

捨て置いてあったノートをパラパラ見てたら、百川敬仁『内なる宣長』から「もののあはれ」についての引用があった*1。以下引用は『内なる宣長』より。

生きて行く上でぶつかる、この世のさまざまの解決不可能な二項対立を肯定し、それによって生ずる苦しみや悲しみを皆で確認しあう時の、いわば悲しみの連帯感情

また次の部分も興味深い。

彼(宣長)も真淵のように、いや真淵以上に人間の性(さが)を記号論的に扱うことによって、近世という内部だけの世界で二元論とその克服のドラマを虚構化しようとしたのである。

石川淳が盛んに二項対立図式を用いていることを考えると、これらの引用部分は、宣長石川淳の相違のヒントになりそう。
再び百川の語彙を借りると、「内面に異界を抱えこんでしまうことへの不安」の表出、「現実の秩序に従いつつ引き裂かれた心をうたう」こと、これが「もののあはれ」である。たしかに石川作品においても、一貫して、「内面に異界を抱え込んでしまうことへの不安」が描かれている。しかし、百川によって宣長の文学論が以下ののようにまとめられるとき、石川はこれを受け入れるだろうか。

宣長は、秩序を人間の意志の彼方に璧な否定性として措定し、つまりは否定的自然として甘んじて受容することによって、世界苦を歌う和歌の根拠を構成しようと企てている

決して「甘んじて受容する」ことはないだろう。それは、「紫苑物語」の宗頼を見れば明らかだろう。「八幡縁起」の公時―高師直を見れば明らかだろう。
しかし、「甘んじて受容する」ことのない彼らは異端であり、彼らの命運は暗い。その点、石川淳本居宣長にはかなりの親近性があるような気がする。

*1:手元に書籍がなく、自ら汚い字で書き写したノートしか手元にない。引用が間違ってたらすいません。