「八幡縁起」

石川淳『紫苑物語』講談社文芸文庫所収。
設定はいつの時代かはっきりしないが、古代であろうことはたしか。賊に集落を襲われ一人生き残った男は、里を捨て岩山の中で暮らし始める。石別(いしわけ)と呼ばれることになる彼は、山で狩を行い岩穴の中で皿、椀を作り、賊が新たに住み着いた里には決して出ることなく生きていく。家族もでき、決して顔を見合わせることのないまま里との物々交換も行われ、平和な日々が続く。
里の荒玉という男、王やその子である武を巧みに操り、山を襲う。山を襲うを、自らの神の名のもとに成し遂げる。石別は子の三郎と鮎に、他の山へ逃げ子を産み増やし、一族を幾多の山々へと広めよと語る。われらの神はどこへ行っても健在だ、敵の妖術に惑わされるな、山の神は「山の材をもって」「もろもろの器をつくる」手とともにある、と。
それからいく世も経たとき。山の一族は自らの神を奉じひっそりと暮らす。それでもやってくる外部からの侵入・・・源貞光、高師直と実在の人物を取り入れながら、語りは八幡宮へと導かれ・・・



実際の八幡にこのような伝承があるのかどうかはわからない。仮にあったにしろ、相当作者の手が加えられているように思う。
「八幡縁起」では「石別ー荒玉」という対立が存在している。これは「山の秩序―里の秩序」の対立である。
山の秩序は常に外部からの侵入に晒されつつ、世界に広がる山々に、自らの「大神」と共に在り続ける。里はそれを征服しようと続ける。この対立は、子々孫々と続けられるだろう。
自らの神は常に唯一の神であるがゆえに名を持たず「大神」と呼ばれる。これはどちらの側においても。しかし、荒玉側は、相手の神を長い時間と共に「八幡」と名づける。名づけられることで「八幡」は荒玉側の「大神」の下に階層化されることになる。


そして、石別の子でありながら里の食事や家畜を奪い、「山―里」間の対立、暗黙の掟を破る人物として次郎という存在がある。この対立の中にありながら、対立を打破しようという存在がある。
「山の子」であるはずの公時は素性を問われこう語る。

「うまれも知らぬ。神も知らぬ。ただ、この山はおれが住むには狭い。おれの力は峰にも谷にもあり余ったぞ。高い空とはどこか。広い世とはどこか。そのどこやらに、おれは出て行くぞ。」

この次郎―公時の系譜は「紫苑物語」の宗頼に近しいだろう。歌と弓矢に、ほとけと魔神に分裂した宗頼。ここで、公時こそ健やかな印象を与えるが、次郎は醜く描かれていることが目に付く。作品結末で、山の一族の末裔を切って捨て、八幡宮*1を焼き尽くす高師直もこの系譜なのだろうか。どちらの秩序にも属さない存在、と言えば聞こえは良いが、そこにあるのは、非―人間的な怪物である。そして石川淳は、それをこそ好んでいるようにも思える。


引用は、圧倒的な迫力の結びから。源氏守護の宮である八幡を焼き尽くしながら、「源氏とはなにか。源氏はおれよ。このおれが源氏じゃ」と豪語する高師直

火はすでに峰を侵し、宮に燃えうつって、拝殿、宝庫、見るまにことごとく炎上、さしも太い宮柱も黒けむりの中にあかあかと崩れ落ちて、立ちのぼる火ばしらは照る日の光よりもつよく雲に映えた。炎の色はふもとの草いちめんに染めわたして、師直の大鎧も、上臈の緋の裳も、ふりかかる火の子の下に、馬もろともに燃えあがるばかりと見えた。

「紫苑物語」と似た構造の物語だけど、非人称の語り手による多元描写や、時折挿入される歌の見事さなど、いつも通りレベル高い。

*1:「八幡」という名称が里側からの呼び名、つまり山の一族自らが奉じた名でないことに注意。