「秋成私論」

新釈雨月物語;新釈春雨物語 (ちくま文庫)
もしくは
安吾のいる風景・敗荷落日 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)
秋成の文章についてこう述べている。

美文とは違う文章の性質がはっきりとみとめられるでしょう。この文章は今でも生きてうごいている。これをうごかしているものは、調子だのクサリだのではなくて、まさに言葉のエネルギーです。一行書くと、その一行の中に弾丸のようなものがひそんでいて、次の一行を発射する。そして、また次の一行。(中略)ことばのはたらきとして、これは後世にいうところの散文の運動に近似するものです。

美文として賞賛される秋成の文章に、石川淳は異なるものを見ている。この散文の考え方が、エクリチュールの概念に近似していることは、彼がアナトール・フランスの古典的美文を見限りアンドレ・ジィドに親炙していたことを考えると、なんら不思議な感はない。そして、石川が安吾の「白痴」に見出していたものも、この散文なのだろう*1

「秋成私論」が例に上げていた上田秋成の文章は「白峯」の冒頭。

あふ坂の関守にゆるされてより、秋こし山の黄葉(もみぢ)見過ごしがたく、浜千鳥の跡ふみつくる鳴海がた、不尽(ふじ)の高嶺の煙、浮嶋がはら、清見が関、大磯小いその浦々、むらさき艶(にほ)ふ武蔵野の原塩竈(しほがま)の和(なぎ)たる朝げしき、象(さき)潟の蜑(あま)が苫や、佐野の舟梁(ふなばし)、木曾の桟橋(かけはし)、心のとどまらぬかたぞなきに、猶西の国の歌枕見まほしとて、仁安三年の秋は、葭(あし)がちる難波を経て、須磨明石の浦ふく風を身にしめつも、行々讃岐の真尾坂(みをさか)の林といふにしばらく?(つゑ)植(とど)む。草枕はるけき旅路の労りにもあらで、観念修業の便りせし庵なりけり。

長々と引用したが、これと「焼跡のイエス」冒頭の文章を見比べれば、秋成の石川淳に対する影響がいかに大きいかわかる→id:ADabiko:20050124#p2。
秋成*2山東京伝と続く散文の系譜が日本の近代文学へとしっかり受け継がれていないことを彼は嘆いているが、それは自らがその系譜に連なるという自負でもあるか。



もう一つおもしろかった点。秋成の「あの世」の捉え方。秋成の「あの世」には来世の観念がないという。「実在の世界とほとんど相似のようなところに別天地がある、未知の世界がある」という。

これ(秋成の「あの世」)は現世と非常に関係があって、現世からは向う側のことはわからない。まん中に闇があって、そこに向う側からときどき首を出して来る。(中略)これは実在の世界と未知の世界という二つの配置があって、同時にその双方に関係する、つまり論語にいう「両端をたたく」。端が二つあって、それを同時にたたかなければならない、そうしなければ世界象は完全につかめない。そういう世界観です。

また長々と引用。この二つの引用をみると、石川淳本居宣長を、上田秋成の論的である本居宣長を、どう評価したのかがますます気になる。二人の思想は、古事記読解だけでなく、文学観でも対立点が存在するはずだからだ。



「外」とか「外部」というタームがますます説得力を失ってるように見えるなかで、改めてきちんとこの辺り読みなおしておかなきゃね。個人的な印象に過ぎないが、非理性的反日左翼は、むしろ宣長的に見えなくない。「外」と「内」が実体化しているという点で*3。わりと親しんできた者として、しっかりと反省しないと。それは植民地支配とかを肯定することにはならないはずだ。

*1:安吾のいる風景参照→id:ADabiko:20050120#p3

*2:石川淳は予想以上に『春雨物語』を評価しているようだ。『雨月物語』に未だ残る美文調を排しているところを評価しているようだ。

*3:追記。実体化っていうのは違う気がしてきた。うまく言えないので、ちょっと保留。