石川淳の文体、セリーヌの文体

「焼跡のイエス」冒頭。

炎天の下、むせかえる土のほこりの中に、雑草のはびこるように一かたまり、葭簀(よしず)がこいをひしとならべた店の、地べたになにやら雑貨をあきなうのもあり、 衣料などひろげたのもあるが、おおむね食いものを売る屋台店で、これも主食をおおっぴらにもち出して、売手は照りつける日ざしで顔をまっかに、あぶら汗をたぎらせながら、「さあ、きょうかぎりだよ。きょう一日だよ。あしたからはだめだよ。」と、おんなの金切声もまじって、やけにわめきたてているのは、 殺気立つほどすざましいけしきであった。きょう昭和二十一年七月の晦日、つい明くる八月一日からは市場閉鎖という官のふれが出ている瀬戸ぎわで、そうでなくとも鼻息の荒い上野のガード下、さきごろも捕吏を相手に血まぶれさわぎがあったという土地柄だけに、ここの焼跡からじぜんに湧いて出てきたような執念の生きものの、 みなはだか同然のうすいシャツ一枚、刺青の透いているのが男、胸のところのふくらんでいるのが女と、わずかに見わけのつく風態なのが、葭簀のかげに毒気をふくんで、往来の有象無象に噛みつく姿勢で、がちゃんと皿の音をさせると、それが店のまえに立ったやつのすきっ腹の底にひびいて、とたんにくたびれたポケットからやすっぽい札が飛び出すという仕掛だが、 買い手のほうもいずれ似たもの、血まなこでかけこむよりもはやく、わっと食らいつく不潔な皿の上で一口に勝負のきまるケダモノ取引、ただしいくら食っても食わせても、双方がもうこれでいいと、背をのばして空を見上げるまでに、涼しい風はどこからも吹いて来そうにもなかった。

この冒頭について島村輝「セリーヌ現代日本文学 大江健三郎野坂昭如石川淳*1

この引用はセンテンスとしてはただ二つの文から構成されており、その情報の量と質の雑多さ、視点の頻繁な移動による遠近法の錯綜、刺激的な表現の多様など、(中略)特徴がはっきりと現れてる。

ここで挙げられた特徴は、野坂、石川、そしてセリーヌ(『リゴドン』のセリーヌ)に共通する特徴だという*2
何よりも悔やまれるのは原文でセリーヌを読めないこと。高坂和彦はセリーヌの文体について「リズムに乗って読んで行けば窮屈な話線から解放されて自由に再構築された意味が向こうからやってくる」と述べている。このような批評が可能な日本の作家がいるだろうか。いないとは思わないが、石川淳折口信夫くらいしか今のところ思いつかない。谷崎はちょっと違う気がしてる。
ちなみに島村は「焼跡のイエス」を、ユングの幼児神をめぐる分析をもとに読んでいる。

*1:有田英也・富山多佳夫編『セリーヌを読む』より。

*2:当該論文内では、もう一人、明治三十一年生まれで義務教育さえ十分に受けておらず七十歳近くの女性がほぼ初めて書いた戦争記録の文章にも似ている、とされる。