メモ

  • 金時鐘の詩 もう一つの日本語』(もず工房)再読。

ヤンソギル・鵜飼哲・瀧克則・細見和之のシンポジウム、キムシジョンや野崎六助らのエッセイ。小野十三郎から受け継いだという短歌的抒情批判は重要と思われるので勉強したい。
以下は「化身」という詩

かりに蛹から抜けきれなかった蝶がいたとして
小枝でそのまま乾いているとしても
翅はしだいに半身のまま風となれ合っていき
あたりに飛翔を花粉のように引き散らしながら
葉うらのあわいでさらされているだろう
 
だから蝶のかけらは
もはや蝶であることを願おうとはしない
舞いも装いもすべては自ら手放してしまったものだ
揺れるがままにそこのところで在りつづけ
ただただ己の入定を見つづけようとする
 
威儀を正した標本の陳列からも
子どもがかざす補虫網の情緒からさえも
飛翔の化身はかたくなに口をつぐみ
ひたすら蝶でありえたことでのみ干からびていくのだ
音ひとつ ふるわせない
脱殻のまま

「蝶」でも「蛹」でもあり得ない存在、「もはや蝶であることを願おうとしない」存在、これが何を意味するかは明白だが、それが、「標本の陳列からも」「補虫網の情緒からさえも」「口をつぐみ」、空想的にも「飛翔」することなく「干からびていく」。
自らは「揺れるがままに」、それでも「音ひとつ ふるわせない」状態−声ひとつ発することない−の「脱殻のまま」「在りつづけ」る。
「威儀を正した標本」からも「子ども」からも逃れる−いや、すでに捕まっているのか?−こと。夢想することではなく、声高に叫びなくことでもなく、「ひたすら」「干からびていく」こと。それはどのような在り方か。